活 動 記 録

「東日本大震災・原発事故の今」参加報告

コロナ禍のため久しく中断していた支縁のまちネットワークの公開研究会が、5月1日(日)、金光教大阪センターにおいて対面・オンラインのハイブリッド形式で開催された。
講師はジャーナリストの北村敏泰氏、テーマは「東日本大震災・原発事故の今 11年目の被災地報告―「苦縁」は”節目”を超えて―」である。
北村氏は、2011年3月の東日本大震災発生当時から現在に至るまで、30回もの現地取材を重ねてきた。
今回の講演は、本年(2022年)3月中旬、宮本要太郎氏(関西大学教授)と共に行った被災地の最新の現地報告を交えてなされた。司会進行は宮本氏が務めた。

東日本大震災や原発事故については数多くの報道が行われてきたが、北村氏は自らの取材姿勢として、自分の目の高さで関係者に話を聞くことを強調する。
この目の高さの姿勢でもって、北村氏は10年余りに及ぶ被災地の変遷、また被災者の心の動き、またそこでの宗教者の活動の変化を捉えるよう努めたという。
今回の講演の中でも、震災直後の被災地の状況から3年、5年、10年と変化していく街の様子、人々の姿を写真で紹介し、大切な家族や帰るべき故郷を失った被災者の思いの移り変わり、またそこで寄り添う宗教者の実践について熱く語った。

被災地には、そこで数多くの人が亡くなった震災遺構が少なくない。大槌町の役場庁舎のように解体されたものが多い中で、南三陸町の防災庁舎はかろうじて残された。
しかしその建物は、20メートルもかさ上げされた土地の中で、上から見下ろされるような状態で保存されている。
この建物は、若い女性職員が防災無線で住民たちに避難を呼びかけ続け、津波に呑み込まれて殉職した場所だ。彼女の母親は震災後、娘の名前を冠した民宿を経営しているが、北村氏はそこにも何度か宿泊して、残された母親の思いを尋ねている。
「気高い”犠牲者”になるより、生きていてほしかった。」これが遺族の偽らざる気持ちであろう。

北村氏は、これ以外にも、釜石市では家族全員を失った消防団長、また石巻市では子供2人を失った夫婦などに話を聞いている。
この夫婦の場合、息子は遺体で発見されたが、娘はいまだに行方不明のままだ。娘を探し続ける切ない思いを綴った文章も紹介された。

東日本大震災では亡くなった人の数ばかりが強調されるが、その一人ひとりにはかけがえのない命があり、また家族がいることを忘れてはならない。
そうした遺族の思いを伝える北村氏の目は潤んでいた。後に残された人々の悲嘆には限りが無く、そこには”節目”などないのだ。この言葉はとても重い。

一方、彼らに寄り添うのが宗教者たちである。
全壊した自坊を自力再建し、作業着を着て地域起こしに尽力している僧侶、幸い高台にあったため多くの住民の避難所になった経験を生かして、その後も防災訓練として「韋駄天競争」のイベントを主催する僧侶、仮設住宅を巡ってお茶っこサロンを企画する僧侶など、宗教者の動きもその思いと共に紹介された。
今回紹介された事例は仏教関係が多かったが、北村氏は新宗教やキリスト教関係も数多く取材されている(詳しくは北村氏の著作『苦縁』参照)。

ところで、震災後の復興を大きく阻害しているのが、福島第一原発事故である。
震災発生当日の夜、政府により原子力緊急事態宣言が発出されたが、今日に至るまでこの宣言は解除されておらず、原発事故は現在も継続中である。
北村氏は原発事故についても精力的に取材してきた。
原発事故の関連死は2,300人を超えている。その中には事故を苦に自死した人も少なくなく、北村氏が取材した範囲でも8人もいたという。
そこに心のケアが強く求められるゆえんがある。

だが、このような“苦の現場”は、実は私たちの身近なところにも数多く見出されるものだ。
宗教者は常にそうした苦の現場にあって人々に寄り添う存在であるし、またそうあってほしいと、北村氏は講演を締めくくった。

当日は、会場の参加者は12名、オンラインでは16名、合計28名の参加者があった。
1時間半の講演後、宮本氏が司会者からのコメントとして、震災で大切なものを失った人々の喪失感の大きさを考えると、彼らにいかに寄り添うかというグリーフケアの重要な課題があると述べた。
また、会場からも、支援後の宗教者の心境の変化、新宗教の活動の状況、また最近のウクライナの人々に寄せる思いとの共通点についてなど、質問やコメントが出され、北村氏との間で活発なやり取りが行われた。(金子 昭)